2009年05月28日
淡竹とモウソウ
最近、立て続けに淡竹(はちく)をいただきました。
孟宗の筍が一段落した時期にいただく淡竹はありがたく、おいしくいただいています。
淡竹をいただいて、すぐに思い浮かぶのは身欠きニシンと炊いたもん。
お出汁を少なめに、みりんと薄口しょうゆを気持ち多いめに。
濃いめで炊くとおいしい。
けど、身欠きニシンが手に入りません。
ニシンの甘露煮はお店で見かけるけど、何か違う気がして、結局、今日も生節と煮付けました。
身欠きニシン。
京料理の定番です。
けど、米のとぎ汁で一晩戻して、番茶で煮出す、という二手間かけてから料理にかかるためか、京都でも特定のお店でないと見かけなくなりました。
江戸時代、アイヌモシリから日本海廻りで運行された北前船の主荷だったニシン。
多くは肥料として使われましたが、良質のものは食用に。
敦賀から山越えで近江塩津や海津を経由し、丸子船で大津まで。
最後、もう一山越えて京まで運ばれました。
アイヌモシリでニシンを調達したのが五個荘や日野の近江商人。
後に、丸紅や伊藤忠といった大商社を築く礎が、ニシン交易でした。
近江商人の記念館に行くと、そういった記録が栄光の軌跡として展示されています。
日本海側には、北前船の歴史を残す湊町が点々とあります。
北前船で財をなした居館を記念館にしている町も多く、中にはアイヌの人たちが山丹貿易で得たアムール地方の品々を展示しているところもあります。
海難事故の怖さや、水夫仕事の過酷さなどを展示しているところもありますが、倭人から見ると北前船は栄華で語られることが大半です。
一方で、アイヌの人たちから見たらどうなるのか?
不等価交易もたびたびであったと言います。
身欠きニシンの料理に手間がかかるのと同様に、おいしい身欠きニシンの背景には複雑な歴史がぎっしりと詰まっています。 (K)


